ショートエッセイ#9「もしベートーヴェンがいま科学者だったら?」

毎日毎日新型コロナウイルスの報道。聞き飽きた!といってはいられない。感染経路不明、家族内感染、病院逼迫--、恐怖の言葉が飛び交っています。経済、科学、医療技術の最先端をいくアメリカでの、そして先進諸国での感染拡大。日本も例外ではありません。科学者はなにしてる!いつも分かってそうな顔してんのに、このざまは!そんな声が聞こえそうです。

今年はベートーヴェン生誕250年の記念すべき年です。彼の音楽ばかりでなく、沢山の人が彼の一生を放送で語っています。彼は市民に向けて楽曲を作り、それを市民に与えてくれた人だったのですね。演奏会を公会堂で開催し、市民がそんな彼の生活を支えたのです。音楽家が王族、貴族あるいは教会といった支配階級に養なわれていた時代から、彼は市民とともに音楽そのものに新しい命を吹き込んだのでした。

いま情報化が進むにつれて、社会の仕組みが変わりつつあります。農業、工業などさまざまな分野で、求める者とそれに応える者の間に直接の関係ができつつあるように思われます。

そんななかで、科学研究者の大多数は引続き国家や大企業の企画する研究プロジェクトに依存して生活しています。そこには科学研究が安定して高収入を得られる手段だ、という側面があることも事実でしょう。ベートーヴェンも晩年には貴族に支えられた生活を送ったのですから、それも大切な生活と創造の在り方でしょう。しかし。市民とともに生活を戦った彼の壮年時代の音楽が、晩年には平和と調和を祈る音楽に変貌したように、現代の科学者にとってはウィズコロナ(コロナとともに)の世界も容認できるものと映る場合もあるのかもしれません。

コロナのパンデミックで多くの人々が苦難にあえぐなかでも株価は上昇し続け、多くの科学者は忙しく国家や企業のプロジェクトの為に研究をしています。勿論、それらの大多数は市民の福祉や経済の発展に寄与しようとするものであり、意義深いものが沢山あります。しかしそれが市民が科学に求めているすべてであるのかどうか。その外にあるかもしれない市民が求めるものを予見し、それを与えることができる力と意志と予見性を兼ね備えた科学者があって、はじめて新しい科学の形が生まれるのかもしれません。ベートーヴェンがいま科学者だったらどうするだろう。 皆様はどうお考えですか?

松村外志張 hascross 便り 23号 (20201225) に掲載