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ショートエッセイ#18「健康科学が戦争抑止に貢献?」

健康科学は戦争抑止に貢献できるか?

ここ数ヶ月、皆様もウクライナへのロシア侵攻のニュースに接して心傷む思いでおられることでしょう。無差別爆撃で破壊しつくされた街に数十万人の市民が閉じこめられ、虐殺目的としかいいようのない侵攻が行われています。しかし過去に遡ると「皆殺し」は希でありませんでした。部族、民族、あるいは宗教や信条を異にする集団の境界で、殺戮と復讐が繰り返されてきました。そんな争いの繰り返しのなかで、共存の知恵を授かった人々が世界を救ってきました。27年間もの収監に耐え、怨恨を克服し、人種差別からの離脱を達成したネルソンマンデラ南アフリカ大統領もその一人でしよう。

マンデラ大統領のような人がいかにして生まれ育ったか、心理学の本には精神の成長に関する一つの仮説(マズローのピラミッド)が紹介されています。マズローのピラミッドは出生に始まる母親と乳児の世界を底辺とし、家族の世界へ、さらに部族、国家といった限られた社会内での献身に終始する世界へ、そしてその頂点には広い環境との調和のなかで自己を実現しようとする精神世界を描いています。

マズローの仮説は科学的というよりは直感的ですが、その仮説に付合する知見が生命科学、特に後生遺伝学(エピジェネティクス)分野から生まれています。後生遺伝学の説明は省略しますが、生体がもっている数万種の蛋白質のそれぞれについて、またその蛋白質を生産する肝細胞とか骨細胞とかいった細胞種のそれぞれについて、その蛋白質をいつ、どの程度の量で生産し、またいつ止めるか、といった条件を取り決める契約書の研究と例えられましょう。そこである蛋白質を住宅ローンに例えると、そのローンを借りるための契約書には本人の署名だけでよいか、保証人が必要か、加えて担保となる資産の証明が必要か、あるいは成人になって始めて発効するか、といったさまざまな条件があるでしょう。受精したばかりの胚細胞に書き込まれている契約内容はわずかですが。胎児期から子供時代にかけて、早急に契約条件が整えられ、また成人してからも生活環境の影響を受けて多少変更されていきます。契約書の主な実態は遺伝子DNA分子の上で起きる一部分子の化学修飾のパターンで、細胞が分裂増殖してもそのパターンが引き継がれることが分かっています。

子供時代に味わう精神的な喜びや成功、あるいは逆に恐怖、虐待といった痛みが後生遺伝の仕組みで遺伝子の上に記銘され、生涯にわたる勇気、愛情、あるいは逆に引っ込み思案、自傷性、攻撃性といった気質を導くという精神成長の後成遺伝仮説が有力です。

記録を見ると、過去100年の間にロシアもウクライナもそれぞれ大量の虐殺を経験しています。その一つはスターリン時代のロシアがウクライナの農民から農産物を強奪し、結果として三百万人を超える餓死者を出した記録(ホロドモール)があり、一方で第二次大戦中ドイツ軍がロシアに侵攻して、都市の包囲作戦による多数の餓死者を含む二千万人を越える死者をだしています。

両国民には、こういった過去を経験しつつも、愛情を持って育てられ、怨念を克服して共存の世界に生きようとする気高い精神性を獲得している人々も多数いるでしょう。しかし一部には、互いに対する不信感や恐怖感が植え付けられたまま精神の成長が押しとどめられてマズローのピラミッドを上り詰めることができず、限定した国家社会への忠誠を正義とする未発達な精神世界にとどまっている者もいるのではないでしょうか。

結局、生命科学がこの戦いの抑止力となるとすれば、いま激しい痛みにさらされているウクライナの子供達を憎しみの連鎖から救出し、順調な精神的成長をもたらすように育てることなのではないか。もしそこに後生遺伝が働いているとすれば、そこでは社会的な環境ばかりでなく、栄養環境や医薬も役割を果たすはずです。

気の長い話ですが、終わりない戦争の連鎖から脱するためには健康科学の貢献が大きいのではないでしょうか。

20220407 松村記

ショートエッセイ#17「対オミクロン接近戦」

対オミクロン接近戦です 慎重に装備を点検しよう

2年を超えたコロナ禍、第5波を乗り越えて先は見えてきたと思ったのもつかの間、感染力抜群のオミクロン株が入って急変。重症化は少ないと言いつつも入院患者が増え続け、医療体制は再度逼迫しかかっています。感染予防の鉄則は変わっていません。人に感染させないためには三密回避、マスクと手や取っ手の消毒が有効ですが、自分を感染から防ぐとなるとこの鉄則だけでは無理です。

マスクは不織布のものがいいと言うが、不織布にもスカスカのも極薄のもあり、濾過性能はバラバラ。そこで濾過性能の規格であるN95とかDS2に合格した濾布なら安心ということになる。ところが鼻の回りに隙間のあるようなマスクならば、規格にあった濾布を使っていてもウルイスは防げない。実験済みです。またN95といいながら規格試験抜きのものも出回っている。私自身N95かDS2規格の証明付きの濾布で吸気漏れが抑えられる構造のマスクを慎重に選んでいます。

最大の課題は家庭内感染の防止でしょう。厚労省サイトに感染予防の注意事項がでている。しかしネット検索で、家庭内での感染予防の成功例を探したがなかなか出てこない。私が唯一見つけた例は日本サッカー協会の田嶋幸三会長が海外から帰国後発熱、同居のお母様がおられるご家庭で奥様の土肥美智子様がコロナを予想し、見事感染を予防された例です。コロナであることは後で確認されました。美智子様が挙げた注意点に厚労省のものにはない点がありました。それは集合住宅のご近所にすばやく通報し、協力をいただいて消毒をなされたことです。

感染に立ち向かうには、一家庭のみでなく、ご近所の方々、お知り合いの方々との助合いが鍵になると思います。家族に感染者がでることを想定して、お互いに顔がわかる町内会の方や医院、薬局などで手順を相談しておかれたらいかがでしょう。心の準備ができていれば素早く的確な対応ができると思います。

もう一方は栄養問題です。コロナの重症化を防ぐといったキャッチフレーズでさまざまなサプリメントが市販されていることから消費者庁から誇大表示だ、そんなものはないとの注意喚起が出ています。たしかに摂取実験で重症化や予防効果が実証されたものはないのですから、証拠は不十分です。しかし栄養が感染後の重症化に関係ないか、といえば関係があることを示唆する疫学調査は多数あり、無視できるものではありません。その中から、血中ビタミンD濃度とアルブミン濃度は注目してよいでしょう。血中ビタミンD濃度とコロナ感染の重症化率の逆相関を結論している疫学調査は多数あります。わが国のビタミンD平均摂取量は6.6μg/日と目安量(8.5μg)に達していないばかりか、平均摂取量は近年減少傾向にあります。感染を避けて日の当たらない室内で生活を送るとなると未達者はさらに高まるでしょう。ビタミンDを含む食品を適宜摂取することは奨めてよいと思います。今ひとつ、血中アルブミン濃度と重症化率とが逆相関することを示す疫学調査結果もあります。血中アルブミン濃度の低下は低栄養の指標として知られており、低栄養は感染症に対する抵抗力低下の指標でもあります。血中アルブミン濃度を維持するためには蛋白質摂取量を維持することが効果的ですから、これも注意事項といえるでしょう。

第5波がなぜあんなに早く納まったのか、まだ十分な説明はなされていません。しかし有力な学説も出ており、それが正しいとすれば第6波にも当てはまるかもしれません。ともかく希望をもち、手綱を引き締めて乗り切ろうではありませんか。

2022/01/26 松村記

ショートエッセイ#16「東京栄養サミット2021」

東京栄養サミット2021開催!貴方の宣言は?

12月7~8日、日本政府主催の栄養サミットが東京で開催されました。このサミットはロンドンオリンピック(2012年)のときに、当時の英国首相の提案で最初に開催され、以来開催国に引き継がれてきました。今回のサミットでは政府関係機関、企業や民間団体など、国内外から多数の参加がありました。私はごく一部の検討会をインターネットで視聴したのみでしたが、食料不足で子育てに苦労している国がある一方、食料が足りながら子供の健康問題に苦しんでいる国など世界的な不均衡が指摘されていました。戦後の最貧から立ち上がって長寿国に成長したわが国の経験を生かして途上国を支援しようとする発表がある一方、肥満や少子化問題など、わが国で解決できていない問題を取り上げた発表もありました。

このサミットの特徴は、参加する団体ごとに今後の目標を宣言することです。岸田首相は日本国政府は次のこのサミットまでに3,000億円を栄養問題解決のために支援すると宣言しました。

オリンピックの年ごとに身回りの健康と栄養に気を配り、あらたに目標を宣言するのはいいことではありませんか。 hascrossは東京栄養サミット2021に宣言を登録した訳ではありませんが、この機会にお話しましょう。

hascrossでは漢方の考え方を生かし、個人々々の健康・体調に合わせたお菓子や食事メニューを創作してご提供してきました。このジャンルのお菓子を゙薬膳菓子゙と称してきました。一方で誰もが日常食べている人気のお菓子・スナックなのに、栄養成分のバランス、これでいいのかなあというもの、ありますよね。その美味しさや風味を損なわずに栄養バランスを整える試みをしてきました。この方向で創作したクラッカ-(hascrossフルスペッククラッカー)はおかげさまで好評をいただいております。食べたいけれども油脂と砂糖が気になるチーズケーキ、その風味と美味しさをそなえながら栄養バランスに優れたチーズケーキを目指して、ようやくご提供にまでこぎ着けました。栄養バランスに優れた食品を食べ慣れてくると、身体が喜んでいる様子が分かるような気がするのは私どもだけでしょうか。hascrossでは、このジャンルのお菓子を゙美健菓子゙と名付けて今後品数を充実させ、薬膳菓子との二本立てで提供できればと考えております。次のオリンピックの年までの進展を楽しみに、ここに方針を宣言させていただきます。

2021/12/16 松村記

ショートエッセイ#15「感染者に優しくコロナゼロへ」

感染に厳しく感染者に優しく、コロナゼロを目指そう!

全国あちこちで、新型コロナウイルスに感染した患者が入院できず、自宅療養をせまられ、十分な加療をうけることができずに命を落とすといった悲しい事態が報じられた第五波の夏でした。そんななかでも毎日夕刻になると、南区永田町のお店近くの環状一号道路ではJR保土ヶ谷駅からの長い坂道を登ってくる通勤帰宅者の列がありました。蒸し暑い夏の夕刻、シッカリとマスクをつけ、黙々と帰宅を急ぐ若い皆さんです。まだワクチンはいきわたっていなかったでしょう。この皆さんが感染を阻止して第五波を押さえ込んだ主役の姿です!感動しました。

ワクチンは効果はあるでしょうが、それだけで完全にコロナを駆逐することはできないとの予測です。第五波がなんとか納まったいま、世の中ではまたまた「withコロナ」という言葉がささやかれています。

しかしそうでしょうか。コロナは撲滅できない、だから一緒に生きていくしかない。その考えでいいんでしょうか。 Withだったら、Noでなければ、いつまでたってもマスク着用から逃れることはできないし、病院は重症患者の搬入に備えなくてはならず、多くの市民にとって引き続いて病院は遠い存在になりつづけることになるでしょう。

このエッセイでも触れてきたことですが、コロナは感染しても、外部への感染源となる道を遮断するか、あるいは3週間ほど誰にも感染させなければ市中からウイルスはなくなるのです。確かに変異はします。しかしインフルエンザウイルスとは違って、人あるいは家畜との接触の機会が多い野生動物の世界で絶えることなく生き続ける種類のウイルスではありません。人間世界から完全に排除できれば、簡単に再び人間世界にやってくるものではないはずです。
とすれば、無症状感染者や症状の軽い感染者を徹底的にケアして、二次感染を防ぐことでwithをnoに変えられるはずです。

ここで希望を与えてくれているのは無症状や軽症の感染者を徹底的にケアした東京都墨田区の取組の成功でしょう。地域の薬局・薬剤師各位、医院・医師各位、保健所各位、そして感染源となりやすい保育所や介護関係施設等の各位との緊密な連携と、自宅療養の感染者への手厚い対応による早期治療が進められて、重症者ゼロを達成したのです。

注意すべきは、感染者、あるいは感染と戦っている介護従事者等に対する偏見、いやがらせ、あるいは差別があちこちで報道されていることです。そのような行動は、感染していても隠したり、検査して陽性が出るとまずい、と言った理由で検査を避ける、といった行動に容易に結びつくでしょう。

感染者の不安を取り除いて必要な支援を用意する仕組みを作ることがまず大切なことなのではないでしょうか。このような取組はなにも総理大臣の指図がなければできないことではないでしょう。地域の町会、自治会といった小さな共同体においても、皆様いろいろお考えのことかと思いますが、そういったご近所の連携から取り組める課題もあるのではないでしょうか。第六波との攻防、努力が実りますように。

2021/10/09 松村記

健康を陰で支える人体組織(ヒト組織)の世界

hascross 健康科学セミナー 第13節
「健康を陰で支える人体組織(ヒト組織)の世界」
-わが国の状況と課題分析から描く未来への道のり-
情報提供者 松村外志張
紙上セミナーテキスト 骨子版(PDF) 詳細(PDF)

今回のセミナーでは移植医療、研究ならびに福祉産業分野で国民の健康増進に多大な貢献をしている人体の臓器、組織、細胞(あわせてヒト組織)の働きと、我が国でのヒト組織の取扱いの現状と問題点、ならびに市民視点からの問題点の解決方法について、調査ならびにセミナー担当者の考察を提供させていただきます。

セミナーテキストは無料で公開しています。ご覧になった方々からのご質問やご意見には、セミナー担当者のみでなく、関連する分野のご専門の先生方からのご参画をいただいてご意見、ご助言を頂戴し、皆様に無料でご参加いただけるようなオンライン検討会の開催を予定しております。

連絡受付窓口
https://hascross.yokohama/contact/

ショートエッセイ#14「スケボー金メダルおめでとう!」

「スケボー金の西谷椛さんと松原市の皆さん おめでとうございます!
コロナ打倒への道に通じますね!」

ガラガラうるさい。車も通る道路でなんと危ないこと。それで人通りがなくなった夜にこそこそ、いい加減に止めてくれませんか。そこでスケボーして遊んでるこどもさん達! 冷たい世間にあって、松原市が市民に心配を掛けないで安全にスケボーが楽しめる公園を作った。そこでモミジさん毎日入場料を払って楽しく練習してたらオリンビックで優勝しちゃった。モミジさんもすばらしいが提案した市長さんと予算を通した市議会議員皆々様のすばらしいこと。これってみんな苦しんでるコロナ感染問題の解決への素敵なアドバイスじゃないでしょうか。

いまコロナ感染は第五波に差し掛かり、感染力が高く悪性な変異型が中心となって感染者の増加に歯止めが掛かりません。ワクチン接種も間にあっていない状況です。この感染症の特長は感染しても症状がない人が多いということ。健常感染者が、2週間誰も他人に感染させなければ市中からウイルスはなくなるのです。そこで病状のある感染者は病院にお願いするとして、そうでない健常感染者を手当たり次第見つけ出し、他の人に感染しないように手を尽くすという方法が効果的だと思いませんか? しかしいまのところ菅総理大臣からも、尾身会長からも、健常者の検査については発言がありません。一方でオリンピツクの選手や関係者については懸命なPCR検査が行われているというのが現状です。

病院でのPCR検査は、病状のある人が対象ですからやたらに健常者を対象とすることはできないでしょうし、そうでなくともお医者さんは忙しすぎます。そこで民間でのPCR検査が始まっていますが、飛行機の利用者や大企業の社員など以外には組織だったPCR検査はまだわずかしか行われていないようです。それに高額です。その間にも美容院など、小さなお店で検査を始めているところもあるようですが、これらに対しては検査に信頼性がない。検査して誤って陰性と出た人が町を闊歩するのは怖い。止めるべきだ。といったネガテイブキャンペーンが広がっています。PCR検査は感染健常者の発見が目的なので、信頼ある検査を受けて陰性と出たとしても引き続き注意が肝心で闊歩していいわけはないのです。なによりも取組んでいる小さな事業者の心意気を感じますね。

それでモミジさんと松原市の話に戻ります。感染していることが分かったらみんなから嫌われると思って大抵の人は検査なんかしたがりません。そうでなくて、健常感染者を助けなければならないのです。地方自治体が検査施設を持てばいいかもしれませんが、そうでなくても、検査しようとしている事業者は沢山あるのですから、検査についての知識と信頼性確保の技術を身につけたインストラクターとガイドラインを供給できればいいのではないでしょうか。ノウハウは製薬企業や検査機関にあり、インストラクターを教育して供給できる機関もNPO法人なども含めて少なくないでしょう。この程度のことは中央政府のお世話になるまでもないのではないでしょうか。地方自治体には動き始めているところもあるようです。町からコロナが消えたら、金メダルどころの功績ではありませんね。
20210801 松村記

ショートエッセイ#13「エッセンシャルワークってなに?」

エッセンシャルワーカーを守れ!そんな声を聞きませんか。
コロナ感染の機会がないとは言えない職場で、市民生活のために働いてくださっている方々には大感謝です。
しかしなんだか好きになれない言葉です。エッセンシャルワークじゃない仕事なんかあるのだろうか。エッセンシャルワーカーだったら休みも返上し、徹夜もいとわずに働かなければならないのだろうか。エッセンシャルワーカーからほど遠い高齢者なんぞは静かに隠れてろ!そんな意味なんだろうか。

一体どこからこんな言葉が出てきたのだろうか。ウイキペディアによると、英国で社会インフラ維持に必要不可欠な職業の労働者と不要不急な労働者を二分化し、具体的なリストを英国政府が示したことに由来するということです。そんなことは知らずに始めてこの言葉を聞いたとき、人類が生きのびるために最小限必要な仕事がエッセンシャルワークだろうと思いました。

アフリカタンザニアのハッザ族は原始時代以来の狩猟採取生活を現代まで守っている種族です。ハッザ族では、生後数年間にかなりの子供を失いますが、それ以後の生存率は高く、45歳での平均余命は20歳を超えるということです。注目すべきは閉経後の女性の生存率が高い。野生動物ではこのようなことはなく、死ぬまで子供を産み続ける。逆にいえば産めなくなったら死ぬ。閉経後の生存は人間に特長的なことですが、原始時代以来の生活を続けているハッザ族で、すでにその特長が示されている訳です。

それではお婆さんのなくてはならない役割とはなんだったのだろうか。いろいろ研究があるようですが、有名なのはGrandmother hypothesis(おばあさん仮説)という仮説です。お婆さんが人類の存続に大きく貢献してきた。それは孫世代の保護や教育を通じての寄与だ、という仮説です。ハッザ族は20~30人の小集団で暮らしていて、医師も薬剤師も看護師もいない。薬になる植物や体によい食生活について、健康について、それなりの知識を持ち、そして互いに助け合う能力をもった若者が育っている。若者達が狩猟採集にかかり切っているとき、家庭でのお婆さんの寄与が欠かせないというのです。

現代の都会生活で医療や食品・日用品の流通網などで働く方がエッセンシャルワーカーだといっても誰も不思議がらないでしょう。でも少し長い目でみれば、お婆さんは欠かすことのできないエッセンシャルワーカーで、そのお婆さんと切り離なされて育ってきた若い人達の苦しみがここかしこに吹き出しているのがいまの日本なのかもしれません。
エッセンシャルワーカーの皆様、どうか休みをとって、健康を守り、ご自分の生活を忘れずにお過ごし下さるように。わが国ではワクチン開発研究者はエッセンシャルワーカーには入っていなかったようです。とすれば当面、自分で感染を防ぎ、仲間で助け合って命を守るしかありません。その知恵を授けるのもお婆さんなのです。
お爺さんも加えていただけますかね。

20210524 松村記

ショートエッセイ#12「母の健康法」

私の母は明治39年(1906年)石川県の農家に生まれ、20歳で結婚、2010年以降東京に定住し、7人の子供を産んで5人を育て、40歳で夫を病に失い、すべての子供が独立した60歳まで一家の柱となって働きました。以後楽しみの多い晩年を過ごして96歳他界しました。
最晩年の数年を除いて健康そのものの人でした。
母の夫、つまり私の父親は体が弱かったものですから、父親の食事は特別で、卵とか魚に気を配っていたと記憶します。蛋白質の大切さ、ということは当時すでに分かっていたのでしょう。 父親も石川県の農家の出身でしたが、町に出た者は農作物は作ってはならぬ、それは農家の仕事だ、という考えで、庭には柿の木一本植えさせない徹底ぶりでした。
子供と母を郷里に疎開させて自分は勤務地の東京に残った父は終戦の年に病死し、戦後、小さい子供らと一緒に疎開から戻ってきた母は庭に野菜をつくり、果樹も植えて、大いに食卓を賑やかにしました。植え込みの上をカボチャの蔓がよじ登っていた記憶があります。
日常は石川県農家風の昔ながらの食事で、煮た野菜や煮豆を沢山食べました。茹でた枝豆や空豆を食べるなんてことはほとんどなく、干し豆を煮豆で食べるのです。煮ないのはトマトと漬け物くらいでした。
戦後は厳しい経済環境に違いなかったと思いますが、ミカンなどは箱買いしていて、沢山食べていた記憶があり、栄養に気をつけていてくれたんだと今感謝してます。
ずっと後になって、お母さんが健康なのはどうしてだと思う?と聞いたことがあります。母はしばらく考えていて、きっと自分は豆が好きで、沢山食べてきたからだろうといいました。ヒジキとかニンジンや昆布などをいれて醤油味で煮た大豆の煮豆のことです。
老後、沢山の友達を得て手芸や染め物を楽しんでいたことも健康に大きな力になったことでしょう。写真は母が作った加賀手まりです。

20210416松村記

ショートエッセイ#11「骨髄細胞提供者と池江璃花子さんの未来に幸いあれ!」

競泳界のスーパースター池江璃花子さん。その彼女が白血病となったとのニュース(2019年2月)はどんなにかスポーツファンを震えさせたことでしょう。医療がいかに進歩したからといって、彼女が再びオリンピックに挑戦することがいったいできるだろうか。 そんな怖れをものともせず治療に専心した彼女は18ヶ月に及ぶ闘病生活を果たして昨年8月に競泳会に復帰、そして今年2月には東京オープン競泳会のバタフライ種目で優勝、今年夏の東京オリンピックへの出場さえ取りざたされるほどの回復ぶりです。 同病者にどんなにか大きな希望を与えていることでしょう。 ここで忘れてはならないことは、彼女の回復の裏に、彼女に自分の命の一部である骨髄細胞を譲った陰の主役がいる、ということでしょう。
臓器・組織あるいは細胞を用いる移植治療では、誰かが自分の一部である生きた臓器・組織あるいは細胞を譲ることなくしては成り立ちません。骨髄細胞のみでなく、心、腎などすべての臓器・組織・細胞の移植術は提供者の生命の一部が受取った患者の中で生き続けるものなのですね。 一方で、このようなめざましい医療技術が確立するまでの経過で、大量の人体組織や細胞が研究のために実験室でその役目を果たしているのです。
このように、体外に取り出された臓器、組織あるいは細胞を取扱うとき、どんな規則を守らなければならないのか、法律にその取扱いの原則を明記しておくことが望ましいと考えられますが、残念ながら我が国にはそういった法律がありません。 部分的には死体解剖保存法とか臓器移植法といった法律がありますが、骨髄移植や研究目的のための臓器・組織・細胞の取扱いも含めてということとなると、法律がないのです。
それも原因の一つではないかと思いますが、我が国では医療のため、また研究のために提供される臓器・組織・細胞は、患者や研究者の求めに応ずるにはあまりにも少なく、さまざまな局面で諸外国のお世話になっているのが現状です。 いまの皆様のご生活とあまり関係ない課題とお考えかもしれませんが、一方でいつ何時お世話になるか、あるいはご自分や肉親が臓器組織を提供する立場に立つことになるか分りません。
私ども長く健康科学研究に携わってきたなかで、人体組織・細胞を貴重な研究対象としてきた経験から、現在でもその関わりを大切にしてきており、当店での調査・研究活動に加えております。 いずれの機会に調査・研究の成果を提供させていただきますので、皆々様のご関心を期待しています。
松村記

ショートエッセイ#10「コロナ時代に至った高コレステロール血症」

新型コロナウイルス肺炎が世界を激しく揺さぶっている今、心臓血管病が糖尿病とならんでその重症化を引き起こす基礎疾患だ、ということが分かってきています。
心臓血管疾患をもたらす大きな要因が高コレステロール血症であることは皆様御存知のことと思います。 しかし昔、高コレステロール血症の人の方が、そうでない人よりも長生きしたことを示す報告を見つけました。
オランダでは、正確な家系図が多数保存されているようです。そんな中から、現在生存している方々で家族性高コレステロール血症(familial hypercholesterolemia,以下FH)である方の家系をたどって、FHの遺伝子がどのような家系を通じて現代までに至ったかを推理した研究者がいました。 FHは常染色体性優性遺伝という種類の遺伝様式を示します。つまり、両親からあわせて二つの対立染色体を受け取るのですが、その内一つの染色体に高コレステロール血症をもたらす遺伝子が乗っていれば、FHになるのです。父親母親両方からあわせて二つの高コレステロール血症遺伝子を引き継いだ場合には、重度なFHになり、早世する場合が多いのです。
この家系図分析から推察されたことは、今から180年ほど前、すなわち1840年頃には、FH素因を持った人の死亡率は、持たなかった人よりも実に40%ほども低かった。つまり長生きしていた、ということでした。現在FHの方の平均寿命はそうでない人と同程度あるいは短いですから、全く逆の世界だったのです。この調査研究の報告者は、FHであることが、なんらかの理由で細菌に対する抵抗性を高めていたからではないか、との仮説をたてています。当時のオランダでは牧畜が盛んで、衛生状態も悪く、感染症がはやっていました。細菌感染によるチフス、ジフテリアなどが思い浮かびます。1900年代に入ると、抗菌剤、血清(抗体)療法、抗生物質などがでてきて、人類は細菌に対する戦いに打ち勝つようになりますが、その以前のことですから、このような仮説もなりたつかもしれません。
この仮説を評価する実験として、組織中の低比重リポタンパク  (LDL,正確にはnon-HDL)の濃度が高い時にはその組織中の炎症性呑食細胞が多くなるという報告を見つけました。
それでは、FHの人は新型コロナウイルス感染にも抵抗力を示すでしょうか。調査結果はノーでした。逆に心臓血管疾患の既往のある方では重症化するリスクが高く、その原因となっている高コレステロール血症につよい危機の目が降り注がれています。ある論文にはFHでの重症化率はそうでない人の22倍にもなる、と警告を出しています。いまのところ、その予測を実験事実で裏付ける論文に行き当たりませんが、私が推察するところは以下のようです: 新型コロナ感染は細菌感染でなくて、ウイルス感染です。炎症性呑食細胞は細菌を捕食しますが、ウイルスは捕食できません。ウイルスは感染するとすぐに細胞内に潜り込んでしまい、呑食細胞は潜り込んだ細胞を捕食することができないからです。ウイルスと初戦で戦うのはナチュラルキラー(NK)細胞です。 NK細胞はウイルス感染した細胞を撃ち殺し、あわせてウイルスも排除するのです。この戦いには高コレステロールはなんの役にもたたないでしょう。かえって、高コレステロールの結果として弱っている血管内皮を激しく攻撃して、疾患をますます重くしてしまう、そんなイメージが思い浮かびます。いずれ研究が進んで真実が解明されるでしょう。
たかだか数百年のあいだにも、人間の体と自然との闘いの形が変わります。あの体質が悪いとかこの体質がよいとかいうことではなく、多様な体質を含めた人類こそ、自然との闘いに勝ち残っていくことができるのではないでしょうか。
松村記

エッセイ ミルクティーの時間 第3話「ワクチン研究開発からみえる健康科学の未来」

なぜワクチン研究から健康科学の将来が見える?
健康体を感染から守る、それがワクチンです。健康体の感染防御の仕組みの応用です。健康科学応用分野の花形の1つです。
 一年を超えた新型コロナウイルスとの戦い、ますます燃えさかるパンデミックに対して、すでに海外の多くの国ではワクチンをもっての決戦に挑みつつあります。
 一方我が国では、マスク、手洗い、3密回避、あるいは会食抑制、といった衛生による感染制御を励行し、一定の成果を上げてきました。しかし衛生だけでは制御しきれずに一部で医療が崩壊する現実に直面して、ワクチンの適用が具体性を帯びて報道されるようになりました。
 1986年から2000年にかけて、私は明治乳業(株)ヘルスサイエンス研究所・細胞工学センター(MIH/CTC)において、B型肝炎ワクチン(MC-HB)の研究・開発に関わった者の一人です。その経験から、今回の新型コロナウイルスの流行においてもワクチン戦略の推移に注目し、その展開を刮目して見守っている者です。
 このエッセイでは、ワクチンの研究・開発を含め、健康科学とその応用分野の推進に共通している課題を取り上げ、その解決へ向けての私見を提供します。ご参考となれば幸いです。またご意見等いただければありがたく存じます。

1.ワクチンの研究にはこんな特徴や課題がある
①ワクチンは病人に対してではなく、健常人に投与されるものです。治療薬ではありません。従って、投与の結果なにかの障害が生じた場合、もし投与しなかったならば障害は起きなかったはず、ということになって、ワクチンの製造者や認可した国の責任が糾弾されかねません。
 そこで、ワクチンの研究には安全性の評価のために特に細心の注意が求められます。費用も時間も、そして多数のボランティアを必要とする臨床試験も並大抵ではありません。
②ワクチンの投与によって、ある程度の頻度で障害が発生することは避けられません。つまり、ワクチンを投与するかしないかの判断は市民全体として受ける利益と、そのなかの少数者に起きる被害とのリスク/ベネフィットの比率を勘案して決定することが避けられません。そして被害をうける少数者への配慮が欠かせません。
 感染があまり広がっていない段階ではワクチンなんて打ちたくない、という心情と慎重な判断が優先しがちですが、感染が身近に近づいてきたとき、突然世間に恐怖感が覆います。ワクチンはどうなっているんだ、早く早く!ということで、リスクへの配慮が足りないままゴーサインが出る、といった話になりがちです。
③ワクチンを投与しても、病気が治るというものでなく、ただ罹らなくするだけです。つまり、その効果を体験的に実感できるものではありません。打たなくてもその感染症に罹らなくてすんでいたかもしれないのです。自分の健康に自信があり、恵まれた社会生活を送っている多くの人々にとって、感染症なんか自分には関係ないことだ、という心理的な感覚があっても不思議はないでしょう。地震や洪水に対して持つ感覚と同様です。
④特に海外に発生した感染症に対してワクチンを研究する場合、将来に起きるかもしれない危険性を察知しつつも、一方では無駄になるかもしれない相当な研究費をあらかじめ投ずることになります。衛生でうまくいかなかったらその時に考えよう、といった態度で対応している間に、いざ必要となった時から始めたのではもはやまにあわず、大損害を被ることになるのです。
⑤ワクチンが必要なのは通常は感染症の多い低開発国から発展途上国で、感染症の少ない先進諸国での需要は少ない場合が多い。 これは儲けという視点からいうと、抜きがたい弱みです。つまり研究のための投資が得にくい。後進国への支援にもなり、人道的にいって是非取り組みたいが、しかし企業研究として実施するのはなかなか、いったことが多々あっても不思議ではないでしょう。
⑥ワクチン研究の特徴と課題が、多くの健康科学研究のそれと共通しているというのはどういうこと?
 それはリスクを回避するための研究に共通な特徴を持ち合わせている、ということでしょう。たとえば、ある種の食品成分や、環境汚染物質、農薬、あるいは医薬品などについては、国によって規制が異なっていますね。どうしてそうなったのか。それは規制の根拠とするための実験結果や調査結果が不十分で、その限られた科学的知見を解釈する考え方が1つにまとまりきれないから、と言っていいでしょう。そこで、国によって判断に相違が出ることもあり得るでしょう。今下している判断によっては将来取り返しの付かない多大な損害でしっぺ返しをくらうことになるかもしれません。つまり、いま投資しておかなければ将来に禍根を残すような課題なのに、いま投資しておくことがなかなかできない課題を含んでいるところに共通点がある、といえるでしょう。

2.それで我が国におけるワクチンの歴史はどうだった?
 ワクチンの話に戻ります。ワクチンを用いる感染との戦いについて、我が国には世界に誇れる金字塔と、また一方で痛恨の大失態と、両方の歴史をもっています。
 代表的な成功例を1つ挙げるとすれば、日本脳炎が蚊によって媒介されるウイルスの感染によることを発見し、我が国における日本脳炎ワクチンの開発の糸口を開いた三田村篤志郎とその共同研究者の活躍があるでしょう。当時(1930年代)泡沫を介して感染するウイルスがあることは分かっていましたが、蚊が媒介するなどということは誰も予想もしなかったということです。それを脳炎の発生状況の詳細な観察から蚊による可能性を突き止め、ついに感染源を蚊から実験動物に人工的に伝搬させることに成功して、ウイルス学に金字塔をうち立てたのです(渡辺漸(1952)Virus70:70-81)。
 一方で、失敗した代表的な例として、小児麻痺への対応をあげることができるでしょう。小児麻痺は第二次大戦前後、米国を中心として爆発的に感染が広がったウイルス性の疾患で、母親への感染により胎児に生涯にわたる身体障害を引き起こす恐ろしい病気です。我が国においては、大戦の終了後から1950年代にかけて流行がくりかえされていました。この間、ウイルスをフォルマリン処理した不活化ワクチンが海外から導入されて使用されていましたが、効果は不十分で根絶にいたらず、流行が繰り返されていたのです。
 当時、すでに効果的なワクチン(生ワクチン)が海外で開発され、我が国へ寄贈もされていながら、その受け取りも導入も渋った許認可官庁ならびに医学界と、導入を待ち望む一般市民との間に大きな乖離が生まれ、市民が許認可官庁に押しかける騒ぎとなり、その混乱を乗り越えるために、当時の厚生大臣が超法規的に生クチンを導入する、という事態に陥りました。結果として、国内での爆発的な感染拡大を納めることができたものの、医学界ならびに許認可官庁の信頼が失われ、後になって日本ウルイス学会が、ウイルス学者が分子生物学的研究を優先させて、社会で指導的役割を果たし得なかったことを反省した決議を行なうに至った、という痛恨の経緯があります(大谷明(2000)「ワクチンン変遷半世紀を共にして」ウイルス50:85-87))。

3.新型コロナウイルスに対する我が国における対処の経緯
 新型コロナウイルスに対して政府が主導する対処は、現在までのところ衛生戦略につきるといっていいでしょう。マスク、手洗い、3密回避、会食制限、といった内容です。そして、対処の目的は’ウィズコロナ’という言葉で示されるように根絶ではなく、共存です。
 抗ウイルス薬もいくつか研究され、また使用されているようですが、自宅待機している多くの感染者に対しては、(自分で解熱剤を調達してくる以外に)医薬品はほとんどなにも適用されていない模様です。
 ワクチンについていえば、いくつか前臨床段階あるいは臨床試験段階にある研究開発が国内で進んでいますが、その中で、もっとも進んでいるものはベンチャー企業アンジェスが取り組んでいるDNAワクチンでしょう。現在臨床第1相を終了し、今年3月に第2/3相に入る予定ということです。とすれば、臨床試験が終了し、さらに承認申請を経て認可されるに至るまでにはまだ数年はかかるのではないでしょうか。
 とすれば、精一杯の衛生手段をとりながらも医療崩壊に直面している我が国の実情を見るとき、事態に対処するためには、海外ですでに上市されているワクチンの輸入にたよる以外に実効的な計画は建てられないと結論していいでしょう。
 ごく最近になって政府から、海外で開発されてきているワクチンを購入する具体的な時期が提示されるようになりました。しかしそれまでは、政府も、また多くの医学研究者も、また国民のアンケート調査でも、慎重な姿勢が前面に出る一方で、ワクチンを使用するとなった場合への議論、たとえば被害者が出た場合への対処といった具体的な議論など、専門委員会ではされているのかもしれませんが、テレビなどで聞いた記憶がありません。たびたび開催されてきた担当大臣の会見においても、「ワクチンについてはいろいろな報道もされているので、接種に関する優先順位、接種の実施体制などについて御議論いただく」というにとどめてきたのが最近までの状況だった、と理解しています。
 この間、衛生戦略だけでコロナウイルス感染を押さえ込むことができるかどうかについての識者の発言はほぼ一様に悲観的でありながら、その解決策といえば、市民行動や社会活動のより強い制限を求める意見が圧倒的に大きく、ワクチンをもって戦う戦略に言及する識者は、ごく最近までとても少なかったように記憶しています。
 このことは、小児麻痺の感染流行当時の政府や医学界の考え方と対処に近い状況が、コロナウイルス感染の現在までの経過にあった、といっていいのではないか、というのが私の印象です。皆様いかがお考えでしょうか。

4.来てほしくない事態が起きたときどうする?
 ワクチンの接種には被害が伴うことがある。そのような被害を100%完全に押さえ込むことはなかなか難しい。なんとか衛生で押さえ込みたい。たとえ完全にではなくとも、抑えることに成功すればなんとかやっていけるのではないか。その心情が識者にも、また市民にも、そして政府にも浸透するなかで、それでも手に負えないほどに爆発する可能性がありうるというリスクに対しては、たとえ一部に障害のリスクがあってもワクチンで戦う以外に選択肢はなかろう、という判断は、医療崩壊が起きて初めて実感され、そして現実に対処するためには、他国の恩恵にすがるしかない、というのが我が国のいまの姿なのではないでしょうか。
 つまり、将来の危険を察知して早々とワクチン開発に取り組んだ国と、そうでなかった国との相違がいま目前に突きつけられている、といってもいいのではないでしょうか。

5.再びこのような事態に陥らないようにするにはどうしたらいい?
 この質問に対しての名答がでれば、将来の我が国の発展にどれだけか大きく寄与するか計り知れない。それならコロナ感染にお礼をいってもいいくらい。というのが私の率直な心情です。
 どうか皆々様の御発案を期待しています。ただ、それであんたはたたき台もなにもないの?といわれるのもなんですので、愚案を申し上げましょう。
私の提案は次のようなものです:
 わが国の大部分の健康科学関連研究は、国から、あるいは企業からの資金によって支持されている、といっていいでしょう。誰でも、自分の活動や生活を支えているものに敬意を払い、その意向に沿う行動をとろうとすることはあたりまえ、といっていいでしょう。そこで、国の研究機関(文科省、厚労省、通産省などの行政機関の管理下にある独立法人の機関を含む)と企業の研究機関、あるいはそれ以外の研究機関であっても、国あるいは企業から支出される研究費によって進められている研究では、遂行しにくい研究課題があるのではないか、というのが私の想定です。
 身近で短期的な課題への成果を求めがちな現在わが国の民主的政治体制のもとにあって、また短期的な利益回収が優先される資本主義経済の枠組みのなかでは、リスクが高く、利益の回収に時間がかかり、長期を要する研究は置き去りにされがちだろう。そういった研究のなかに少子化問題の解決へ向けた研究課題や、地球温暖化、環境汚染、食品添加物や農薬の安全性評価、ワクチンといった研究課題があるだろう、というのが私の見方なのです。
 選挙では短期的な視野を優先する議員が多数票で選出されて政治を支配するとしても、長期的な視野を有する市民がいないわけではない。そこで市民から研究者に直接に研究費が投ぜられるパイプを作ることによって、これら国と企業の支持による研究でカバーしにくい研究が加速されることになるのではないか。そういうルートを作ってみたらどうなるでしょうか。
 大学には独立の人事権が与えられており、また研究にも自由が与えられているのだから、あらためて既存の機関の外に研究者の生活を支えたり、またその研究を支持するための新しい資金ルートを作る必要はない、という声もありそうです。 しかし、多分必要だろう、というのが筆者の見方です。なぜなら大学が長期の雇用を保障する身分の教育・研究者を採用しようとするとき、すでに政府や企業から提供される研究費の獲得に成功している研究者(PI,Principal Investigator, 研究の主任者であることの意味)を採用することが多いからです。
 科学研究者と市民とが直接に連携する枠組みを構築することが、研究の質そのものを変えることになるだろうというヒントを私にくれたのは、ベートーベン生誕250周年の記念番組でした。この部分については、ショートエッセイ(松村外志張「もしベートーヴェンがいま科学者だったら」)、また英文のエッセイ(MatsumuraT(20201230)hascross mini essay series #2 If Beethoven lived as a scientist)で、それぞれヘルスサイエンスクロスロード(hascross)の公式ウエブサイトに開示しておりますので、ご興味あり次第、ご覧ください。

6.そんなことできるのか?
 市民と研究者を直結させた研究が大きな成果をもたらすとしても、市民の立場からいって、税金を払っているのだからもう沢山。それでやればいいじゃないか、という意見もあるでしょう。たしかに従来型の研究活動、すなわち国や企業など、市民目線からみれば間接的なパトロンの元での研究活動によっても多くの創造的な研究がなされてきたわけですから、これら間接的パトロンの元での研究を否定するものでは全くありません。ただ、一部の研究を研究者と市民との直結によって進めることによって、いままでカバーできなかった分野での新しい展開があるだろう、しかも、結果として相当な節税ができるだろう、という筆者の予測なのですから、間接的パトロンに頼らない新しいルートがすでにそこにあるはずもなく、工夫して道を開かなければならないでしょう。
 この課題については、税務や法律も含めた広い識者の協力を要することと思いますが、基本的には以下のような形が考えられるのではないでしょうか:
①研究者が私費で実施した研究であって、その成果が公共の福祉に寄与すると判断された場合には、その私費を市民からの寄付によって補填する道を開くこと。またその成果によって国費が節約されたとみなされる部分の国家予算を削減すること。
②市民が私費を拠出して研究者を支援し、その成果が公共の福祉に寄与することと判断された場合には、私費を拠出した市民の所得税の一部を減免する措置をとると同時に、えられた成果によって国費が節約されたとみなされる部分の国家予算を削減すること。

 以上の要件が満たされる場合には、国全体としてみたとき、研究に投ぜられる人的・資金的な負担は変わらず、政府負担が軽減されて身軽になり、市民の健康科学への関与が深まってますます健康になる、という夢のような未来が見えてくるのではないでしょうか。諸賢のご批判やご意見をいただきたく存じます。

2021年2月4日
ヘルスアンドサイエンスクロスロード 松村外志張

ショートエッセイ#9「もしベートーヴェンがいま科学者だったら?」

毎日毎日新型コロナウイルスの報道。聞き飽きた!といってはいられない。感染経路不明、家族内感染、病院逼迫--、恐怖の言葉が飛び交っています。経済、科学、医療技術の最先端をいくアメリカでの、そして先進諸国での感染拡大。日本も例外ではありません。科学者はなにしてる!いつも分かってそうな顔してんのに、このざまは!そんな声が聞こえそうです。

今年はベートーヴェン生誕250年の記念すべき年です。彼の音楽ばかりでなく、沢山の人が彼の一生を放送で語っています。彼は市民に向けて楽曲を作り、それを市民に与えてくれた人だったのですね。演奏会を公会堂で開催し、市民がそんな彼の生活を支えたのです。音楽家が王族、貴族あるいは教会といった支配階級に養なわれていた時代から、彼は市民とともに音楽そのものに新しい命を吹き込んだのでした。

いま情報化が進むにつれて、社会の仕組みが変わりつつあります。農業、工業などさまざまな分野で、求める者とそれに応える者の間に直接の関係ができつつあるように思われます。

そんななかで、科学研究者の大多数は引続き国家や大企業の企画する研究プロジェクトに依存して生活しています。そこには科学研究が安定して高収入を得られる手段だ、という側面があることも事実でしょう。ベートーヴェンも晩年には貴族に支えられた生活を送ったのですから、それも大切な生活と創造の在り方でしょう。しかし。市民とともに生活を戦った彼の壮年時代の音楽が、晩年には平和と調和を祈る音楽に変貌したように、現代の科学者にとってはウィズコロナ(コロナとともに)の世界も容認できるものと映る場合もあるのかもしれません。

コロナのパンデミックで多くの人々が苦難にあえぐなかでも株価は上昇し続け、多くの科学者は忙しく国家や企業のプロジェクトの為に研究をしています。勿論、それらの大多数は市民の福祉や経済の発展に寄与しようとするものであり、意義深いものが沢山あります。しかしそれが市民が科学に求めているすべてであるのかどうか。その外にあるかもしれない市民が求めるものを予見し、それを与えることができる力と意志と予見性を兼ね備えた科学者があって、はじめて新しい科学の形が生まれるのかもしれません。ベートーヴェンがいま科学者だったらどうするだろう。 皆様はどうお考えですか?

松村外志張 hascross 便り 23号 (20201225) に掲載