ショートエッセイ#18「健康科学が戦争抑止に貢献?」

健康科学は戦争抑止に貢献できるか?

ここ数ヶ月、皆様もウクライナへのロシア侵攻のニュースに接して心傷む思いでおられることでしょう。無差別爆撃で破壊しつくされた街に数十万人の市民が閉じこめられ、虐殺目的としかいいようのない侵攻が行われています。しかし過去に遡ると「皆殺し」は希でありませんでした。部族、民族、あるいは宗教や信条を異にする集団の境界で、殺戮と復讐が繰り返されてきました。そんな争いの繰り返しのなかで、共存の知恵を授かった人々が世界を救ってきました。27年間もの収監に耐え、怨恨を克服し、人種差別からの離脱を達成したネルソンマンデラ南アフリカ大統領もその一人でしよう。

マンデラ大統領のような人がいかにして生まれ育ったか、心理学の本には精神の成長に関する一つの仮説(マズローのピラミッド)が紹介されています。マズローのピラミッドは出生に始まる母親と乳児の世界を底辺とし、家族の世界へ、さらに部族、国家といった限られた社会内での献身に終始する世界へ、そしてその頂点には広い環境との調和のなかで自己を実現しようとする精神世界を描いています。

マズローの仮説は科学的というよりは直感的ですが、その仮説に付合する知見が生命科学、特に後生遺伝学(エピジェネティクス)分野から生まれています。後生遺伝学の説明は省略しますが、生体がもっている数万種の蛋白質のそれぞれについて、またその蛋白質を生産する肝細胞とか骨細胞とかいった細胞種のそれぞれについて、その蛋白質をいつ、どの程度の量で生産し、またいつ止めるか、といった条件を取り決める契約書の研究と例えられましょう。そこである蛋白質を住宅ローンに例えると、そのローンを借りるための契約書には本人の署名だけでよいか、保証人が必要か、加えて担保となる資産の証明が必要か、あるいは成人になって始めて発効するか、といったさまざまな条件があるでしょう。受精したばかりの胚細胞に書き込まれている契約内容はわずかですが。胎児期から子供時代にかけて、早急に契約条件が整えられ、また成人してからも生活環境の影響を受けて多少変更されていきます。契約書の主な実態は遺伝子DNA分子の上で起きる一部分子の化学修飾のパターンで、細胞が分裂増殖してもそのパターンが引き継がれることが分かっています。

子供時代に味わう精神的な喜びや成功、あるいは逆に恐怖、虐待といった痛みが後生遺伝の仕組みで遺伝子の上に記銘され、生涯にわたる勇気、愛情、あるいは逆に引っ込み思案、自傷性、攻撃性といった気質を導くという精神成長の後成遺伝仮説が有力です。

記録を見ると、過去100年の間にロシアもウクライナもそれぞれ大量の虐殺を経験しています。その一つはスターリン時代のロシアがウクライナの農民から農産物を強奪し、結果として三百万人を超える餓死者を出した記録(ホロドモール)があり、一方で第二次大戦中ドイツ軍がロシアに侵攻して、都市の包囲作戦による多数の餓死者を含む二千万人を越える死者をだしています。

両国民には、こういった過去を経験しつつも、愛情を持って育てられ、怨念を克服して共存の世界に生きようとする気高い精神性を獲得している人々も多数いるでしょう。しかし一部には、互いに対する不信感や恐怖感が植え付けられたまま精神の成長が押しとどめられてマズローのピラミッドを上り詰めることができず、限定した国家社会への忠誠を正義とする未発達な精神世界にとどまっている者もいるのではないでしょうか。

結局、生命科学がこの戦いの抑止力となるとすれば、いま激しい痛みにさらされているウクライナの子供達を憎しみの連鎖から救出し、順調な精神的成長をもたらすように育てることなのではないか。もしそこに後生遺伝が働いているとすれば、そこでは社会的な環境ばかりでなく、栄養環境や医薬も役割を果たすはずです。

気の長い話ですが、終わりない戦争の連鎖から脱するためには健康科学の貢献が大きいのではないでしょうか。

20220407 松村記

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