ショートエッセイ#23「総理大臣の科学、専門家の科学、市民の科学」

総理大臣の科学、専門家の科学、市民の科学

子供のころ、なにになりたい?と聞かれ、科学者になるんだといった記憶がある。大学では念願の理学部に、そして大学院に進むにつれて、教育の様子が変わってきた。中学・高校で習う科学には異説というものがほとんどない。人名もあまり出てこない。ところが大学院で触れる原著論文は人名であふれている。そこでは著者が実験や調査を行って獲得した知識が、いままで誰も報告したことがない新知識であることが主張され、また誰かが提唱している学説を証左するか、否定するか、あるいは新学説を必要とするか、といった考察が述べられている。つまり先端にある科学の世界は、断片的な科学的新知識とともに、検証がまだ不十分な多様な学説よりなっていて、日々更新されている状態なのだ。
6年前に給与を頂戴する身分を辞し、日常生活に関心を深めるようになった。そこでは、さまざまな学説があってまだ決着がついていないはずの事柄が、あたかも科学者が一致して認めている科学的真実であるかのように流布している例が沢山あると感じた。農薬や食品添加物の安全基準などであるとか、最近の例でいえば、コロナの予防や重症化を避ける効果がある食品やサプリメントがあるとする宣伝についてはすべて科学的な根拠なしと否定する見解がいくつかの公的機関から出されていることがある。このこともあってかマスメデイア等ではこの話題をあまりとりあげていないようであるが、科学の世界では真剣な研究が進められていて、研究途上であるといっても期待できる候補物質も存在するのが現実である。
科学的な議論が煮詰まらずとも、判断を示すことは、公的機関の立場からいえばやむを得ない場合もあろう。判断力に欠ける市民が悪質な宣伝に惑わされるよりも政治的な判断を与える方が害が少ないという判断もあろう。しかしその場合は、判断が政治的なものであることを明かにすることが大切であろう。
hascrossでは、なによりも市民各位がご自身で判断する力を磨いていただくことが第1。そのために科学の心得と情報とを提供するという方針でセミナー等を行ってきた。
きて、本年2月23日に地球環境と生物多様性危機への対応に関する現況を把握すべく、この分野の専門家であるマイケルノートン教授を迎えてオンラインセミナーを開催した。マイケルノートン教授は、欧州EUの政策決定を科学者の立場から支援する諮問組織(EASAC)の地球環境プログラムディレクターである。EUを支援する組織であるとはいえ、EUその他の国家からの経済的支援は勿論、企業からの支援も受けとらない独立組織で、欧州各国の科学アカデミーから選出された30名ほどの専門家と、それら専門家を無償で支える多数のボランティア科学者から構成されている。その報告書はEUは勿論、国連に対しても影響を与え、日本語にさえ翻訳されている。この点は我が国で同様な働きが期待されている日本学術会議(The Science Council of Japan)と対照的である。後者は総理大臣に任命権のある210名の科学者と年間10億円の予算で活動する巨大な政府機関であって、沢山の報告書を出しているが、その報告書があまり世の中で参考とされていないらしく、改廃が取り沙汰されているとも聞いている。
総理大臣が、難しいことなので専門家におまかせします。どうしたらいいんですか? といえればこんなに楽なことはないだろう。しかしコロナも、そして地球環境も、いまどきの大問題について、学説を建てて検証を進めるというアプローチを取っている科学者に、科学以外のさまざまな状況判断も含めた時事判断が求められるる政治の役割を担わせようとすることは見当違いであろう。
EASACが出している報告書は、専門科学者の立場から分析を行って、政策責任者にたいして説得力のある科学的な情報と考察を提供しているからこそ、責任をもって対処しようとしている政策決定機関が参考に供しているのではないか。そして科学を含めて、あらゆる条件を勘案して物ごとを決めていかなければならない総理大臣に求められる態度こそ、市民一人一人に求められるそれと同様なのではないだろうか。皆様どのようにお考えだろうか。               2023/3/18 松村外志張