エッセイ ミルクティーの時間 第3話「ワクチン研究開発からみえる健康科学の未来」

なぜワクチン研究から健康科学の将来が見える?
健康体を感染から守る、それがワクチンです。健康体の感染防御の仕組みの応用です。健康科学応用分野の花形の1つです。
 一年を超えた新型コロナウイルスとの戦い、ますます燃えさかるパンデミックに対して、すでに海外の多くの国ではワクチンをもっての決戦に挑みつつあります。
 一方我が国では、マスク、手洗い、3密回避、あるいは会食抑制、といった衛生による感染制御を励行し、一定の成果を上げてきました。しかし衛生だけでは制御しきれずに一部で医療が崩壊する現実に直面して、ワクチンの適用が具体性を帯びて報道されるようになりました。
 1986年から2000年にかけて、私は明治乳業(株)ヘルスサイエンス研究所・細胞工学センター(MIH/CTC)において、B型肝炎ワクチン(MC-HB)の研究・開発に関わった者の一人です。その経験から、今回の新型コロナウイルスの流行においてもワクチン戦略の推移に注目し、その展開を刮目して見守っている者です。
 このエッセイでは、ワクチンの研究・開発を含め、健康科学とその応用分野の推進に共通している課題を取り上げ、その解決へ向けての私見を提供します。ご参考となれば幸いです。またご意見等いただければありがたく存じます。

1.ワクチンの研究にはこんな特徴や課題がある
①ワクチンは病人に対してではなく、健常人に投与されるものです。治療薬ではありません。従って、投与の結果なにかの障害が生じた場合、もし投与しなかったならば障害は起きなかったはず、ということになって、ワクチンの製造者や認可した国の責任が糾弾されかねません。
 そこで、ワクチンの研究には安全性の評価のために特に細心の注意が求められます。費用も時間も、そして多数のボランティアを必要とする臨床試験も並大抵ではありません。
②ワクチンの投与によって、ある程度の頻度で障害が発生することは避けられません。つまり、ワクチンを投与するかしないかの判断は市民全体として受ける利益と、そのなかの少数者に起きる被害とのリスク/ベネフィットの比率を勘案して決定することが避けられません。そして被害をうける少数者への配慮が欠かせません。
 感染があまり広がっていない段階ではワクチンなんて打ちたくない、という心情と慎重な判断が優先しがちですが、感染が身近に近づいてきたとき、突然世間に恐怖感が覆います。ワクチンはどうなっているんだ、早く早く!ということで、リスクへの配慮が足りないままゴーサインが出る、といった話になりがちです。
③ワクチンを投与しても、病気が治るというものでなく、ただ罹らなくするだけです。つまり、その効果を体験的に実感できるものではありません。打たなくてもその感染症に罹らなくてすんでいたかもしれないのです。自分の健康に自信があり、恵まれた社会生活を送っている多くの人々にとって、感染症なんか自分には関係ないことだ、という心理的な感覚があっても不思議はないでしょう。地震や洪水に対して持つ感覚と同様です。
④特に海外に発生した感染症に対してワクチンを研究する場合、将来に起きるかもしれない危険性を察知しつつも、一方では無駄になるかもしれない相当な研究費をあらかじめ投ずることになります。衛生でうまくいかなかったらその時に考えよう、といった態度で対応している間に、いざ必要となった時から始めたのではもはやまにあわず、大損害を被ることになるのです。
⑤ワクチンが必要なのは通常は感染症の多い低開発国から発展途上国で、感染症の少ない先進諸国での需要は少ない場合が多い。 これは儲けという視点からいうと、抜きがたい弱みです。つまり研究のための投資が得にくい。後進国への支援にもなり、人道的にいって是非取り組みたいが、しかし企業研究として実施するのはなかなか、いったことが多々あっても不思議ではないでしょう。
⑥ワクチン研究の特徴と課題が、多くの健康科学研究のそれと共通しているというのはどういうこと?
 それはリスクを回避するための研究に共通な特徴を持ち合わせている、ということでしょう。たとえば、ある種の食品成分や、環境汚染物質、農薬、あるいは医薬品などについては、国によって規制が異なっていますね。どうしてそうなったのか。それは規制の根拠とするための実験結果や調査結果が不十分で、その限られた科学的知見を解釈する考え方が1つにまとまりきれないから、と言っていいでしょう。そこで、国によって判断に相違が出ることもあり得るでしょう。今下している判断によっては将来取り返しの付かない多大な損害でしっぺ返しをくらうことになるかもしれません。つまり、いま投資しておかなければ将来に禍根を残すような課題なのに、いま投資しておくことがなかなかできない課題を含んでいるところに共通点がある、といえるでしょう。

2.それで我が国におけるワクチンの歴史はどうだった?
 ワクチンの話に戻ります。ワクチンを用いる感染との戦いについて、我が国には世界に誇れる金字塔と、また一方で痛恨の大失態と、両方の歴史をもっています。
 代表的な成功例を1つ挙げるとすれば、日本脳炎が蚊によって媒介されるウイルスの感染によることを発見し、我が国における日本脳炎ワクチンの開発の糸口を開いた三田村篤志郎とその共同研究者の活躍があるでしょう。当時(1930年代)泡沫を介して感染するウイルスがあることは分かっていましたが、蚊が媒介するなどということは誰も予想もしなかったということです。それを脳炎の発生状況の詳細な観察から蚊による可能性を突き止め、ついに感染源を蚊から実験動物に人工的に伝搬させることに成功して、ウイルス学に金字塔をうち立てたのです(渡辺漸(1952)Virus70:70-81)。
 一方で、失敗した代表的な例として、小児麻痺への対応をあげることができるでしょう。小児麻痺は第二次大戦前後、米国を中心として爆発的に感染が広がったウイルス性の疾患で、母親への感染により胎児に生涯にわたる身体障害を引き起こす恐ろしい病気です。我が国においては、大戦の終了後から1950年代にかけて流行がくりかえされていました。この間、ウイルスをフォルマリン処理した不活化ワクチンが海外から導入されて使用されていましたが、効果は不十分で根絶にいたらず、流行が繰り返されていたのです。
 当時、すでに効果的なワクチン(生ワクチン)が海外で開発され、我が国へ寄贈もされていながら、その受け取りも導入も渋った許認可官庁ならびに医学界と、導入を待ち望む一般市民との間に大きな乖離が生まれ、市民が許認可官庁に押しかける騒ぎとなり、その混乱を乗り越えるために、当時の厚生大臣が超法規的に生クチンを導入する、という事態に陥りました。結果として、国内での爆発的な感染拡大を納めることができたものの、医学界ならびに許認可官庁の信頼が失われ、後になって日本ウルイス学会が、ウイルス学者が分子生物学的研究を優先させて、社会で指導的役割を果たし得なかったことを反省した決議を行なうに至った、という痛恨の経緯があります(大谷明(2000)「ワクチンン変遷半世紀を共にして」ウイルス50:85-87))。

3.新型コロナウイルスに対する我が国における対処の経緯
 新型コロナウイルスに対して政府が主導する対処は、現在までのところ衛生戦略につきるといっていいでしょう。マスク、手洗い、3密回避、会食制限、といった内容です。そして、対処の目的は’ウィズコロナ’という言葉で示されるように根絶ではなく、共存です。
 抗ウイルス薬もいくつか研究され、また使用されているようですが、自宅待機している多くの感染者に対しては、(自分で解熱剤を調達してくる以外に)医薬品はほとんどなにも適用されていない模様です。
 ワクチンについていえば、いくつか前臨床段階あるいは臨床試験段階にある研究開発が国内で進んでいますが、その中で、もっとも進んでいるものはベンチャー企業アンジェスが取り組んでいるDNAワクチンでしょう。現在臨床第1相を終了し、今年3月に第2/3相に入る予定ということです。とすれば、臨床試験が終了し、さらに承認申請を経て認可されるに至るまでにはまだ数年はかかるのではないでしょうか。
 とすれば、精一杯の衛生手段をとりながらも医療崩壊に直面している我が国の実情を見るとき、事態に対処するためには、海外ですでに上市されているワクチンの輸入にたよる以外に実効的な計画は建てられないと結論していいでしょう。
 ごく最近になって政府から、海外で開発されてきているワクチンを購入する具体的な時期が提示されるようになりました。しかしそれまでは、政府も、また多くの医学研究者も、また国民のアンケート調査でも、慎重な姿勢が前面に出る一方で、ワクチンを使用するとなった場合への議論、たとえば被害者が出た場合への対処といった具体的な議論など、専門委員会ではされているのかもしれませんが、テレビなどで聞いた記憶がありません。たびたび開催されてきた担当大臣の会見においても、「ワクチンについてはいろいろな報道もされているので、接種に関する優先順位、接種の実施体制などについて御議論いただく」というにとどめてきたのが最近までの状況だった、と理解しています。
 この間、衛生戦略だけでコロナウイルス感染を押さえ込むことができるかどうかについての識者の発言はほぼ一様に悲観的でありながら、その解決策といえば、市民行動や社会活動のより強い制限を求める意見が圧倒的に大きく、ワクチンをもって戦う戦略に言及する識者は、ごく最近までとても少なかったように記憶しています。
 このことは、小児麻痺の感染流行当時の政府や医学界の考え方と対処に近い状況が、コロナウイルス感染の現在までの経過にあった、といっていいのではないか、というのが私の印象です。皆様いかがお考えでしょうか。

4.来てほしくない事態が起きたときどうする?
 ワクチンの接種には被害が伴うことがある。そのような被害を100%完全に押さえ込むことはなかなか難しい。なんとか衛生で押さえ込みたい。たとえ完全にではなくとも、抑えることに成功すればなんとかやっていけるのではないか。その心情が識者にも、また市民にも、そして政府にも浸透するなかで、それでも手に負えないほどに爆発する可能性がありうるというリスクに対しては、たとえ一部に障害のリスクがあってもワクチンで戦う以外に選択肢はなかろう、という判断は、医療崩壊が起きて初めて実感され、そして現実に対処するためには、他国の恩恵にすがるしかない、というのが我が国のいまの姿なのではないでしょうか。
 つまり、将来の危険を察知して早々とワクチン開発に取り組んだ国と、そうでなかった国との相違がいま目前に突きつけられている、といってもいいのではないでしょうか。

5.再びこのような事態に陥らないようにするにはどうしたらいい?
 この質問に対しての名答がでれば、将来の我が国の発展にどれだけか大きく寄与するか計り知れない。それならコロナ感染にお礼をいってもいいくらい。というのが私の率直な心情です。
 どうか皆々様の御発案を期待しています。ただ、それであんたはたたき台もなにもないの?といわれるのもなんですので、愚案を申し上げましょう。
私の提案は次のようなものです:
 わが国の大部分の健康科学関連研究は、国から、あるいは企業からの資金によって支持されている、といっていいでしょう。誰でも、自分の活動や生活を支えているものに敬意を払い、その意向に沿う行動をとろうとすることはあたりまえ、といっていいでしょう。そこで、国の研究機関(文科省、厚労省、通産省などの行政機関の管理下にある独立法人の機関を含む)と企業の研究機関、あるいはそれ以外の研究機関であっても、国あるいは企業から支出される研究費によって進められている研究では、遂行しにくい研究課題があるのではないか、というのが私の想定です。
 身近で短期的な課題への成果を求めがちな現在わが国の民主的政治体制のもとにあって、また短期的な利益回収が優先される資本主義経済の枠組みのなかでは、リスクが高く、利益の回収に時間がかかり、長期を要する研究は置き去りにされがちだろう。そういった研究のなかに少子化問題の解決へ向けた研究課題や、地球温暖化、環境汚染、食品添加物や農薬の安全性評価、ワクチンといった研究課題があるだろう、というのが私の見方なのです。
 選挙では短期的な視野を優先する議員が多数票で選出されて政治を支配するとしても、長期的な視野を有する市民がいないわけではない。そこで市民から研究者に直接に研究費が投ぜられるパイプを作ることによって、これら国と企業の支持による研究でカバーしにくい研究が加速されることになるのではないか。そういうルートを作ってみたらどうなるでしょうか。
 大学には独立の人事権が与えられており、また研究にも自由が与えられているのだから、あらためて既存の機関の外に研究者の生活を支えたり、またその研究を支持するための新しい資金ルートを作る必要はない、という声もありそうです。 しかし、多分必要だろう、というのが筆者の見方です。なぜなら大学が長期の雇用を保障する身分の教育・研究者を採用しようとするとき、すでに政府や企業から提供される研究費の獲得に成功している研究者(PI,Principal Investigator, 研究の主任者であることの意味)を採用することが多いからです。
 科学研究者と市民とが直接に連携する枠組みを構築することが、研究の質そのものを変えることになるだろうというヒントを私にくれたのは、ベートーベン生誕250周年の記念番組でした。この部分については、ショートエッセイ(松村外志張「もしベートーヴェンがいま科学者だったら」)、また英文のエッセイ(MatsumuraT(20201230)hascross mini essay series #2 If Beethoven lived as a scientist)で、それぞれヘルスサイエンスクロスロード(hascross)の公式ウエブサイトに開示しておりますので、ご興味あり次第、ご覧ください。

6.そんなことできるのか?
 市民と研究者を直結させた研究が大きな成果をもたらすとしても、市民の立場からいって、税金を払っているのだからもう沢山。それでやればいいじゃないか、という意見もあるでしょう。たしかに従来型の研究活動、すなわち国や企業など、市民目線からみれば間接的なパトロンの元での研究活動によっても多くの創造的な研究がなされてきたわけですから、これら間接的パトロンの元での研究を否定するものでは全くありません。ただ、一部の研究を研究者と市民との直結によって進めることによって、いままでカバーできなかった分野での新しい展開があるだろう、しかも、結果として相当な節税ができるだろう、という筆者の予測なのですから、間接的パトロンに頼らない新しいルートがすでにそこにあるはずもなく、工夫して道を開かなければならないでしょう。
 この課題については、税務や法律も含めた広い識者の協力を要することと思いますが、基本的には以下のような形が考えられるのではないでしょうか:
①研究者が私費で実施した研究であって、その成果が公共の福祉に寄与すると判断された場合には、その私費を市民からの寄付によって補填する道を開くこと。またその成果によって国費が節約されたとみなされる部分の国家予算を削減すること。
②市民が私費を拠出して研究者を支援し、その成果が公共の福祉に寄与することと判断された場合には、私費を拠出した市民の所得税の一部を減免する措置をとると同時に、えられた成果によって国費が節約されたとみなされる部分の国家予算を削減すること。

 以上の要件が満たされる場合には、国全体としてみたとき、研究に投ぜられる人的・資金的な負担は変わらず、政府負担が軽減されて身軽になり、市民の健康科学への関与が深まってますます健康になる、という夢のような未来が見えてくるのではないでしょうか。諸賢のご批判やご意見をいただきたく存じます。

2021年2月4日
ヘルスアンドサイエンスクロスロード 松村外志張